安いレーシック
ホントにイージーなレーシックです。これで本当に視力が回復するの?と疑問に持ちたくなる気持ちもわかりますが、これがレーシックなのです。
エイズをテーマに扱った人形劇も作って演じるようになった。
集まった子どもたちと、性や恋愛の話をするようになった。
中心メンバーのK.Tさんと笠井秀郎さんは、一九八六年秋の松本のエイズパニックを二度いくりかえすまいい、エイズに取り組んだ人たちである。
パニックの時、銭湯から入浴を拒否されたカナダ人女性は、彼らの隣人であり、友人だった。
仙台では、東北地方でエイズで亡くなった八人の血友病患者を悼み、八人分のメモリアルキルトを作った。
山形の花、紅花を中央に掲げたみごとなキルトである。
山形には血友病の息子をもつ肝っ玉母さん、U.Nさんがいて、患者だもの現状を伝えた。
U.Nさんは長年、血友病患者運動を担い、感染者を支えてきた人である。
旭川や福岡では、医療関係者や「ギルダー」と呼ばれるキルト作りの名人の女性たちが参加していた。
そこではエイズに感染して短かい命の赤ちゃんたちのベッドカバーとなるベビーキルトが縫われ、外国へ送られた。
最初のメモリアルキルト展の時に縫っていた人たちは、今もその地域でエイズ教育や感染者をケアする活動を続けている。
日本で初めて作られたメモリアルキルトは、イ二シャルを入れただけの二枚の「ホワイトキルト」だった。
京都展が始まる直前に、東京都立K病院のN.S医師が、大事に紫の風呂敷にくるんで京都へ持ってきた。
エイズシンポジウムの会場作りをしていたSさんは、実行委員会のメンバーを呼び集めて、厳粛な表情でキルトを広げた。
白地に青と水色のフェルトで「KW」と縫いつけられたキルトと、赤とピンクの「KF」の二枚だった。
N.S医師は「この二枚はなるべく近くに展示してあげて下さいね。
ご夫婦なんですよ」と言った。
都立K病院の感染症科は、一九八五年、日本で最も早くからエイズの外来診療と電話相談を始め、この時までに一三〇人あまりのエイズ患者・感染者の診療を行ってきた病院だ。
そのうち三分の二が、性行為による感染者である。
N.S医師は、かなり前からメモリアルキルトの日本展開催について相談を受け、その試みに共感していた。
「ホワイトキルト」の構想を練った一人でもある。
持参した二枚の「ホワイトキルト」も、病院の医師や看護婦によって作られた。
エイズ診療では、医師や看護婦が、通常の診療では考えられないくらい、深く患者の人生に関わっている。
その理由はいくつか考えられるが、エイズ診療になくてはならない患者へのカウンセリングや精神的、心理的なケアを、医師や看護婦自身がやらなければならなかったことにある。
日本の医療制度のなかに、カウンセラーが位置づけられていないからだ。
エイズのように社会的な偏見が強ト病気では、患者のプライバシー厳守が診療を成り立たせる基本になっているため、医師が患者の現状や訴えを代弁する窓口となってきたことがあげられる。
この傾向は、エイズのボランティア団体が“発達途上”だった初期にはとりわけ強かった。
さらに付け加えれば、エイズという新しい病気に立ち向かう患者たちが、苦しい闘病をしながらも希望を失わず、自らの人生をまっとうしようと生きている、こうした姿が医師たちの心を揺さぶったのだと思う。
N.S医師は、「ホワイトキルト」の患者のプライバシーに関わることを、いっさい語らなかったが、夫は血友病患者で、自分の感染を知らずに妻にうつしてしまったらしい。
しかし夫婦の間の絆はかたく、妻は夫を献身的に介護して看取り、やがて自らも発病し後を追った。
この二人の闘病の姿は、病院のスタッフにも大きな感銘を残した。
こうして彼らを看護した医療関係者、が中心となって、この二枚のキルトが生まれたのである。
その夜、関西の実行委員会では大急ぎで、この「ホワイトキルト」の裏地を縫いつける作業が行われた。
一ヵ月後、東京でキルト展示開かれ九時、N.S医師はもう一枚のメモリアルキルトを託されて持ってきた。
それは中央に亡くなった人の大きなイニシャル、「K・S」を置き、右には彼が着ていた緑のTシャツと紺のトランクスを縫いつけたキルトだった)。
左にはスヌーピーのイラストの首に、故人が愛用していた蝶ネクタイを結んでいる。
そしてところ散りばめられた小さなイニシャルは、このキルトを作った彼の友人たちのものだった。
作るのに二日間かかり、皆ボロボロ泣きながらの作業だったという。
その後知った話では、この人は大企業に勤めていたが、彼を診療した地域の医師が、感染者として彼のことを公表してしまった。
匿名だったものの感染が会社に知られてしまい、「二年間給料を出すから出社するな」と言われてそこを辞めた。
就職活動を始めると面接で、「なぜ一流の会社を辞めたのか」と必ず聞かれるので、そのたびに嘘をつくのが辛いと訴えていた。
このキルトを作った友人の一人は、彼を最後まで看取ったが、やがてその人もエイズが発病し、亡くなっている。
K・Sさんは子どもが好きな人たったことから、キルトの裏地は松本のK.Tさんの所に集まった子どもたちが描いた絵を、パッチワークにして縫いつけたものになっている。
メモリアルキルトジャパンの呼びかけに応じて、愛媛のA.Nさんもキルトを作った。
彼は亡くなった血友病の若者や子どもたちを追悼して曼陀羅を書いた。
キルトの布に、中国の詩人、寒山の五言絶句と般若心経の文字を一字一字刻んだキルトである。
保存がきいて退色しない塗料を検討した結果、真鐘の粉をニカワで溶いたものを使うことにした。
キルト作製の日は四月一五日。
一人の若者の命日である。
友人のN.Yさん、メモリアルキルトのSさん、それにA.Nさんと長いつきあいのあるカメラマンや私たち取材者が立ち会った。
「死生元有命」で始まる漢詩は、「賢い人は早く死んで、愚かな人間はかえって長生きするものだ」という内容で、A.Nさんは筆を進めながら「若い人が早く死んでしまうのに、俺はなぜ生きているんだろうという思いがいつもあるからね」と言った。
途中で「目が回る」と言って少し横になったが、後半はあっという間だった。
そして赤いポスターカラーに自分の血を抜き取って混ぜ、「愛」の文字を大きく一気に書きあげた。
「自分にしかできないことは、自分の血を使って書くことだ」とあらかじめ考えていたらしいが、奥さんが異議を唱えた。
医師に相談すると、「HIVは熱に弱いから、ドライヤーで乾かせば大丈夫」と言われて踏み切った。
最後に「風よ雲よ伝えてよ」という言葉を入れた。
書きあげるまでに約二時間。
かいがいしく手助けをしていた奥さんもほっとして、一同に乾杯用のビールを配った。
このキルトは四月一八日に開かれた広島展から展示された。
漢字による強烈なメッセージは、会場でも異彩を放ち、多くの人がくいいるように見ていた。
A.Nさんは亡くなる一ヵ月前だったというのに、たいへん元気で、奥さんが運転する車に乗って、フェリーで瀬戸内海を渡り広島展を見に来た。
そしてアメリカの「エイズ≒プロジェクト」のスタッフの解説を聞きながら、車椅子で一枚ずつ見て回った。
A.Nさんの表情は、いっそう晴ればれとしてきた。
「来てよかった。
いろんな思いが、どこかでつながっているような気がする。
国や言葉の違いを越えて、人間の尊厳がうたいあげられているんじゃないかな。
感動ですね。
参加できたこいたけで幸せでいっぱいで、もう何も言うことはない。
少しでも長生きしたい。
ありがとう、と言いたい」
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レーシックが学んでいることですが、それは「そのレーシックの文章の内容そのもの」です。